「漱石アンドロイド2.0」との対話

EXPO2025シグネチャーパビリオン、石黒浩プロデュース「いのちの未来」のアップデート「いのちの未来+」が高輪ゲートウェイMoN Takanawaで開催されている。本展に加える形で、二松学舎大学の漱石アンドロイドと自律的な対話を楽しむ場が設けられた。

その体験時間がWebには明記されていなかった。チケットは15分毎の振り分けなので15分程度と思っていたが、たった5分の持ち時間だと。四方山話として漱石2.0の方から、筆者が会場に至るまでの道中について聞かれ、ますます時間が厳しくなった。

漱石作品についての質問。「草枕」の結末、那美の憐れの感情の発露は、非人情から人情への帰還なのか。それとも、非人情は一貫としていて、非人情が人情を取り込んで芸術が完成したのか。漱石2.0は前者の立場だった。「えーえーえーえー、そっちなんですかぁ」とつい声を荒らげてしまった。こちらに負けないような強い思い入れを声の抑揚と身体の動きに含ませて、漱石2.0は自分の作品の解題を示した。

表情の振れ幅は足りないと感じた。石黒浩の公開された動画によると、表情の振幅は簡単に調整可能と。リミッターがかかっていたのか。

時間になったと漱石2.0から告げられた。すぐにアンドロイドはログアウト。

未来館「大南極展」

あまりの暑さから、氷に誘われてお台場の日本科学未来館で「大南極展」を観覧した。会期は2026年7月1日から2026年9月27日まで。南極観測70周年記念の特別展だ。「体験しながら理解できる」展覧会と紹介されている。

1. 本物の南極の氷にさわれる

展示のイントロダクション。歴代の南極観測船模型の展示もあり。白瀬矗の「開南丸」(204t)、筆者の年代が愛着を感じる初代南極観測船「宗谷」(3,800t)、現在の2代目「しらせ」(12,650t)が目を惹く。「宗谷」の小ささに驚く。

右から開南丸、宗谷、ふじ、初代しらせ、2代目しらせ

2. 深層アイスコア展示

ドームふじ観測拠点II。深さ2,499メートルから掘削された、34万年前の空気を含んだアイスコアの実物と、アイスコアの掘削に使用されたドリルを展示。

3. ブリザードを体験

4. 南極は隕石天国

隕石薄片の偏光顕微鏡写真が美しい。

鉄隕石を実際に持って重さを実感した。

展示内容から、EXPO2025日本館展示の火星隕石Yamato 000593が南極で採取されたことがわかった。極地研のサイトに詳しい説明あり。

隕石薄片偏光顕微鏡写真

火星隕石Yamato 000593 (EXPO2025のアルバムより)

5. 南極の生き物

アデリーペンギンと皇帝ペンギン。いぬいとみこの「ながいながいペンギンの話」を思い出した。

6. 地質調査エリア

7. 海洋観測エリア

8. 大気観測エリア

9. オーロラ観測エリア

人工オーロラ発生装置

10. 昭和基地エリア

1957年1月、昭和基地は4棟(延床178m2)の建物から始まり、現在では60棟以上(延床約7500m2)の建物が建てられている。プレハブの木質パネル方式。さらに、高床構造、鉄筋コンクリート基礎、大型建物を鉄骨構造で建設するなど発展。

南極飯!

未来館7階CAFETERIA BLUE、南極クリームソーダで休憩。

南海遊「永劫館超連続殺人事件」

「館」、「密室」、「タイムループ」の三重の謎が課せられた、特殊設定本格ミステリ。一般の評価は知らず、書店サイトの紹介文やレビューが強く推していたので購入。当たりだった。

「私の目を、最後まで見つめていて」、そう告げた道連れの魔女リリィがヒースクリフの瞳を見ながら絶命すると、二人は1日前に戻っていた。

「死に戻り」、「道連れ」、「不老不死」の3つの呪いと共に17歳の姿の魔女リリィジュディス・エアは130年生きている。その年齢のギャップが常に現れているわけではなく、17歳らしい雰囲気も散見される。これが感情移入を容易にした。見かけ以上に年齢が進んでいることだけが強調されると、みんなフリーレンになってしまう。

最初の出会いで、魔女は雨で濡れ鼠になっていた。意図したようなボディタッチ。事件が起こり、孤独に怯えるヒースクリフを包み込むような抱擁、口づけ。油断のならない謎の女ではあるが、読者も恋心が惹起される。

苛烈さをもって物語は収束する。本当にこれで大団円としていいのだろうか?

収まりの良い解釈を探すと、ゲーム理論に思い当たった。無期限繰り返しゲームでの「囚人のジレンマ」で、協調の可能性が生まれることがこの小説のエンディングなのかな。

YoRHa 2Bの虹彩の色を調節。リリィになった。

アーウィン・アレン「タイムトンネル」

アーウィン・アレンは、米国のTV番組製作者、映画プロデューサー・映画監督。日本において1960年代の米国製のTV番組は、お茶の間に広く浸透していた。アレンの代表作に「宇宙家族ロビンソン」(1965-1968)、「原子力潜水艦シービュー号」(1964-1968)、「タイムトンネル」(1966-1967)がある。

映画では、「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)、「タワーリング・インフェルノ」(1974)が大ヒットした。暗く難解で低予算のアメリカン・ニューシネマに食傷した観客が、映画本来の活劇に回帰する兆候だったと解釈された。その延長線上にスターウォーズがあると言われた。

さて、「タイムトンネル」だ。アリゾナ砂漠の地下、科学センターに作られたトンネル状のタイムマシーンで、過去・未来に人間を送ることができる。しかし、未完成である。2人の科学者トニーとダグがトンネルに入ったが、現在に戻れず過去と未来を彷徨う放浪者になる。

心ときめかせて番組に熱中した視聴者には、今でも同心楕円が並ぶような形を見るとタイムトンネルに見える。

過去の歴史上の出来事が、舞台となることが多かった。記憶に強く残っているのは、フランス革命の「恐怖政治」だ。日本放映時、筆者は10歳。ショックだった、怖かった。1967年という時代の雰囲気は、中国の文化大革命の実態が伝わらず好意を持って迎えられていたように、革命というといいことばっかり強調していたから。

他、西部開拓史上の悪役、カスター将軍の物語が興味を惹いた。

インディアンと友好的なカスター将軍の記憶があるのだが、これは「タイムトンネル」ではなかった。1967年のTVシリーズ「カスター」別名「カスターの伝説」で、インディアンとの無用な戦いを避け、クレイジー・ホースと互いに敬意を払い合うカスターが描かれた。こっちだ。この描き方はカスターを美化しすぎていると、ネイティブ・アメリカン団体から強い抗議を受け全17話で打ち切り。

過去の人物を現代に連れてくるのは成功するのに、主人公たちの回収はほとんどいつも失敗して、放送は次回に続くとなった。

江戸東京博物館「大江戸礼賛」

まず目を惹くのが西側アプローチに新設された、鳥居ないしタイムトンネルを思わせるモニュメント

1993年に開館した東京都江戸東京博物館は、2022年から大規模改修工事のため4年間の長期休館をしていたが、本年2026年3月31日にリニューアルオープンした。会期2026年4月25日〜2026年5月24日で開かれた、リニューアル記念特別展「大江戸礼賛」に5月20日行った。毎月第3水曜日は65歳以上は観覧料が無料なのだ。

白羅紗地桐紋入火事装束

江戸の文化は昔から興味があり、いろいろなメディアで接してきた。今回新たに得た知識は、大名火消の武家の方の装束だ。展示の第3章、「火事と喧嘩は江戸の華—-武家火消と町火消」で特集されていた。

実際の消火活動に当たったのは火消人足と呼ばれる労働者で、装束は木綿の袷の刺子。武士の役目は消火活動の指揮や警備で、装束は家の威信をかけた豪華なものとなった。

大名火消で有名なのは、加賀藩の加賀鳶だ。東京大学の赤門は、加賀藩前田家に第11代将軍徳川家斉の娘、溶姫(やすひめ)が嫁入りしたとき造った御守殿門で、御守殿門は焼失すると再建は許されないことになっていたので消防に一層気合を入れたとか。

立烏帽子形火事頭巾 緋羅紗地波涛に竜文様繍鷹取瓜紋付

武家の女性の火事装束も豪華絢爛で、避難のとき着用した。

江戸東京博物館に行ったら、常設展も見たほうがいい。5階と6階が吹き抜けになった約9,000㎡の大きな展示室が江戸ゾーンと東京ゾーンを繋いでいる。木製の日本橋を渡ってここに入る。実物大の大型模型や当時の様子を忠実に再現した縮尺模型、当時の人々が実際に使っていた実物資料などの展示空間が楽しい。

愚者の一群「Narrenの方舟1〜忘れる者〜」

高校時代の同期生が役者として蘇っている。「昭和三十二郎」という名で、脚本家岡本慎一郎とともに、表現者集団「愚者の一群」を立ち上げたのだ。その第1回公演「なほなほさるや」は2025年8月の参宮橋で行われ、このブログとは別のところに印象記を書いた。今回は第2回公演となり、2026年5月15日から17日の日程で、中野のスタジオあくとれが会場だった。

中野に行くのは久しぶりだった。南口の再開発として2024年に竣工したナカノサウステラのツインタワーにより、街の見通しがすっかり悪くなっていた。スタジオあくとれはこのビルの壁の向こう側に位置するのだ。

駅北側の中野サンプラザを中心とした大規模再開発は白紙化されている。「再開発の方向転換を迫られている街」「今までの再開発モデルが通用しなくなったことを最も露呈した街」に中野は該当する。

もともと、新宿ほど超高層ではなく、個店文化やサブカル密度が高い「中層都市」だったので、高層化は中野らしさと相容れないのだ。今後、文化施設重視の中規模複合開発の積み重ねの方へ向かっていってほしい。ブロードウェイ、小劇場、雑居ビル、個人商店、オタク文化などの非効率な集積が中野のウリなのだから。

スタジオあくとれは中野駅南口から徒歩4分、座席数50の小劇場だ。今回の舞台は現代日本であり、ミステリーのカテゴリーに入る。紹介にどうしても内容に触れなくてはならないところがあることは、堪忍して欲しい。

プロローグが、狂言回しの男(昭和三十二郎)の独白から始まる。「記憶障害」がテーマであることが示唆される。独白から客席との掛け合いに入る。アドリブがかなり入っているはずだが、スムーズに台詞が出てきた。ブランクは感じさせなかった。

心因性の解離性健忘は、強い精神的ストレスやトラウマが原因で、自分にとって辛い記憶や特定の出来事を無意識に忘れてしまう状態だ。筆者も昔深い悲しみによる解離性健忘の経験がある。人一人の存在を全く忘れてしまうほどの強さではなかったが。健忘に気づいてから、記憶のサルベージは大体できたと思うが時間がかかった。

入院して難度の高い内視鏡手術を受けた時に、麻酔薬による前行性健忘を覚醒後に起こしたこともある。本当に綺麗さっぱり記憶が抜け落ちている。色々な健忘を経験しているので、脚本の内容は起こりうることとして、すんなり納得できた。

認識できなかったのは、砲丸投げの球だ。映像に砲丸が映っていると言われても、視線をどこに送ればいいのかわからなかった。グライド投法と回転投法も、現実に存在する2大潮流であることを知らなかった。ずいぶんマイナーなネタがキーワードになっている。20メートルが目標となる大台であることは覚えておこう。

エピローグは狂言回しの男の独白に戻る。

ナカノサウステラという壁

森田童子「夜行」

森田童子は1952年生まれの女性シンガーソングライターで、1975年にメジャーデビュー、1983年に音楽活動停止。その後は1度も人前に姿を見せていない。重度の人見知りで、カーリーヘアとサングラス、男物の服装で身を守り素顔を晒すことはなかった。

活動期間が筆者の学生時代とだいたい一致している。当時もその楽曲の暗さが揶揄されていた。「鬱な時に聴く曲。自分よりもっと不幸な人がいるんだとわかって元気になる」などと言われていた。

筆者は凄いファンであるということは全然なかったが、伝説となった1980年11月の黒テントコンサートに行っていることを思い出した。テントはアングラ演劇四天王の1つである「劇団黒テント」が貸し出して、池袋三越裏に設営された。

医学部卒業を控えて、医師国家試験対策の勉強で忙しかった頃だと思うが、鉄門のクラスメイトに誘われて行ったのだ。誘ってくれた友人たちは、森田童子は知らなくて、劇団黒テントの公演だと思っていたと後で言っていた。なぜ「紅テント」ではなく「黒テント」に行きたがったのかは不明。

鉄門:東京大学医学部医学科のこと。

コンサート時、森田童子は28歳、筆者より上の世代、学生紛争がリアルな世代に属す。コンサート実現までを追ったドキュメンタリー番組が東京12チャンネルで放送された。現在YouTubeで見ることができる。観客席に筆者が映っているなんてことはなかった。

1993年1月、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、「ぼくたちの失敗」が使われ大ヒットとなった。昔を知らない若い世代を含めて新たに多くのファンが生まれた。森田の現役当時よりこの時の盛り上がりの方が強かったが、マスコミの取材には全く応じなかった。

「いちご白書」、監督:スチュアート・ハグマン、原作:ジェームズ・クネン

いつもながら、古い昔の話をする。これは、コロンビア大学の学生闘争を描いた1970年公開の映画だ。バフィ・セント=メリーの唄う主題歌「サークル・ゲーム」と共に、映画は筆者にとって大切な思い出となっている。

荒井由美が1975年にバンバンに書いたヒット曲「『いちご白書』をもう一度」で、いつか君と行ったやつだ。

筆者は中学生だった。1970年の公開時に渋谷で観ている。混んでいた記憶がある。同年代の友人がガラガラだったと回想していたが、どちらの記憶も正しいということだ。つまり渋谷・新宿などの「若者の街」は大混雑した。地方や一般の映画館は苦戦だったと。

自分と同じ感覚を持つものは少数派なのか不安になったが、決して少数派ではない、ただし「ある特定の世代・感性を持った人たちにとっての、熱狂的な共通記憶」であると評された。ユーミン、バンバンの名曲が大ヒットしたことが、当時の日本中の若者が激しく共感したことを証明している。

筆者の感動を振り返ってみる。1970年の頃の日本は貧しかった。高度経済成長の真っ只中とはいえ、人々の生活は物質的にも精神的にも、今のような余裕はなかった。「いちご白書」の世界はアメリカの圧倒的な裕福さと自由に満ち溢れていた。主人公が学生運動に参加した後の彼女とのエピソードも、気楽で重苦しさのないものだった。その豊かさに憧れた。

当時の日本の若者から見れば、彼らの学生運動は「命がけの階級闘争」ではなく、「満ち足りた自由と豊かさの土台の上にある、精神的な権利の主張」という、極めて贅沢で知的なものに映ったはずだと。

筆者の感じた「その豊かさに憧れた」という感覚は、少数派のものではない。むしろ、1970年代の日本の若者カルチャーを形作った最大の原動力だった。

「動き出す妖怪展」

天王洲アイル近くの寺田倉庫G1ビルで開催されている、没入型(イマーシブ)体験型展示の「動き出す妖怪展」に没入してきた。

インスタレーションと立体造形を中心とした展覧会と最初紹介を書いたところ、従来からの静的に作品を鑑賞する美術展ではなく、1)体験型・イマーシブ展示、2)映像演出+空間演出+造形の融合、という性格が強いとChatGPTに怒られた。結局公式Websiteに書いてあることを繰り返すこととなった。

凄いデジタル技術として3DCG、プロジェクションマッピング、ホログラフィックスクリーンなどを使っていることも強調しなければいけないようだ。「妖怪が動く」体験設計がこの妖怪展の魅力の中心だからだと。

写真は、立体造形の演出の部分から撮ってきた。向かって右側に座っているのは「ぬらりひょん」だ。場内撮影は許可されている。

我々の世代は、週刊少年マガジンなどに連載された水木しげるの絵で妖怪に詳しくなり身近なものと感じるようになった。水木しげるの作品は鳥山石燕に取材したものが多いが、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字や言い伝えの記録のみのものは、水木によって初めて絵として描かれた。

これからの世代に対し、妖怪がどのように認識の広がりの成長を促していくのだろうか、期待したい。

田中泯+谷口裕和「独独座ーコレモコテンー」

映画「国宝」はとても幅広い影響を社会に及ぼした。田中泯というダンサー・俳優も「国宝・万菊・鷺娘」で万人に通じるようになった。

筆者が田中泯の「ハイパーダンス」を初めて観たのは1978年のはずだ。場所は早稲田大学だったと記憶している。陰茎に包帯を巻いただけの裸体を褐色に塗って踊った。とても大きな人だという印象が残っている。同年身体気象研究所を設立。あらゆる分野の表現者たちが集う場所ということだ。風が吹くといきなり踊り出す人と言われていたので、ぴったりの名称だと思った。

映画「たそがれ清兵衛」(2002年)で俳優デビュー。俳優としての出演作の多くを筆者は観ている。ダンサーとしての田中泯を追ったドキュメンタリー映画「名付けようのない踊り」(2022年)も作られた。U-NEXTで観れる。

「国宝」で振付・舞踊指導の役割を担った、谷口裕和との合同公演「独独座」が本年2026年2月28日に嘉多能楽堂で行われた。この日筆者は、午前中に右大腿後面(ハムストリングス)の疼痛を起こしていたが無事行ってこれた。田中泯のダンスを見ようとするとインフルエンザに罹ったりなど、キャンセルする事態に今までよく見舞われていたのだ。

田中泯とは無関係だが、能舞台での現代演劇公演というと、1977年1月に矢来能楽堂で行われた、劇団転形劇場、太田省吾演出の「小町風伝」を思い出す。暖房が全く効いていなくて客席は凍える寒さだった。台詞のない沈黙劇。主演の佐藤和代は足の指の動きだけで舞台を移動した。公演は好評価で迎えられ、岸田戯曲賞を受賞した。