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モルテン・ティルドゥム「イミテーション・ゲーム」

91jxpyhuy0l-_sl1500_数学者アラン・チューリング(1912-1954)の生涯を描いた2014年の映画「イミテーション・ゲーム」(日本公開は2015年)を、DVDで観ました。監督:モルテン・ティルドゥム。主演:ベネディクト・カンバーバッチ。

チューリングマシンの名の通り、コンピューターの誕生に重要な役割を果たしたアラン・チューリングですが、第二次世界大戦中にドイツのエニグマ暗号を解読し戦争終結に多大な貢献をしたことは、1970年代まで国家機密とされていました。

実際のエニグマ暗号解読の詳細については、サイモン・シン「暗号解読」などの書籍に詳しく書かれています。映画ではごく簡単に描写されているだけです。映画内でクリストファーの名で呼ばれる暗号解読装置ボンブは、映画の演出の都合上実物より大きく作られました。まるで1987年の日本のアニメ映画「王立宇宙軍 オネアミスの翼」に出てくる機械式コンピューターのように見えます。「オネアミスの翼」の方も、機械式コンピューターのデザインをボンブを参考にした可能性はあります。

これを書いた後Netflixで視聴可能になったので「オネアミスの翼」を見直してみましたが、コンピューターは電気式であり、機械式ではありませんでした。別の作品でしたか。「屍者の帝国」のは、もっとエレガントなデザインですし、記憶の出どころが不明です。失礼しました。

この映画の特に素晴らしいパートは、エニグマ暗号解読に成功してからラストまでの30分間です。

お勧めの映画です。まずは観てください。

宮内悠介「彼女がエスパーだったころ」

51iqltmjmflスペース金融道シリーズで有名な、SF作家宮内悠介が疑似科学に愛を捧げた短編集「彼女がエスパーだったころ」を読みました。スプーン曲げや終末期医療にまつわるあれやこれやなどがモチーフとして扱われています。語り手の記者である「わたし」は、疑似科学に批判的な立場から話を始めます。そして取材が進むに連れて、疑似科学を肯定も否定もしない境地に至ります。作者のインタビューによれば、科学リテラシーと信仰の両立であり、作者の愛の形です。

ガチガチの科学主義者であり、現代科学に裏付けられたダーウィニズムを信奉するこのブログの筆者が、嫌っているはずの疑似科学に寛容な小説を紹介するのはいささか奇異に感じられるかも知れません。しかし、偏狭な価値観一辺倒ではないことをご理解いただけたと思います。

実は表紙のデザインとタイトルに惹かれて購入を決めたのでした。さらに皮肉なことに、入手した電子書籍版ではページを繰って表紙を見ることができません。講談社に改善を要望したい。

現実世界での社会現象ではありませんから、「水にありがとうと言葉を込めて、全世界の水を浄化する」と書いてあっても、筆者は目くじら立てて怒ったりはしません、しないつもりです、する一歩手前ですが踏みとどまります。

鳥公園「↗ヤジルシ」

京浜島の入り口の公演正面のモニュメント

京浜島の入り口の公園正面のモニュメント

2016年9月15日、京浜島の元鉄工所であるBUCKLE KOBOで、鳥公園の舞台「↗ヤジルシ」を観ました。

住民が1人しかいない広大な工業地帯である京浜島。この島の鉄工所を、オープンアクセス型アートファクトリーにしようというのがBUCKLE KOBOプロジェクトです。つまり、芸術家の工房として、誰にでも貸し出すという意味でしょう。この2階建の工場を舞台として借り切って公演が行われました。

鳥公園の芝居を観るのは初めてでした。徳永京子、藤原ちから著の「演劇最強論」で主宰者西尾佳織が紹介されていたので興味を抱いたのです。西尾佳織は大学・大学院で寺山修司、太田省吾を研究した経歴があります。

「↗ヤジルシ」は太田省吾の最後の戯曲になります。私は、太田省吾の転形劇場の舞台は、その出世作「小町風伝」しか観たことがありません。1977年の真冬、暖房がまったく入っていない矢来能楽堂で観た沈黙の演劇はしっかりと記憶に残っています。足の指先の動きだけで舞台を移動した主演女優、佐藤和代の評判が口コミで広がって、演劇史に残る出来事となったのです。

廃工場での回遊型の公演で、お客は自由に移動して演じられている芝居を観る形式であるとの事前の説明から、寺山修司の天井桟敷の舞台の再来も期待して観劇に臨みました。

思い描いていたよりも狭い工場でした。1階と2階で同時進行的に演技が行われていましたが、寺山修司の「百年の孤独」(1981) のような、同じフロアのそこかしこで別々に進行する舞台を期待していた身には、スケール感が期待はずれとなりました。天井桟敷の蘭妖子、高橋ひとみに匹敵する魅力ある俳優にも出会えませんでした。

70年代演劇を経験したものは、未だに過去の亡霊にとらわれているということなのでしょうか。

今回の舞台を総括すると、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」のカテゴリーに属すという印象となりました。

塩田千春「鍵のかかった部屋」

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2016年10月2日、神奈川芸術劇場、中スタジオで、塩田千春のインスタレーション、「鍵のかかった部屋」を観ました。2015年、第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に日本代表作家として出品し高い評価を得た《掌の鍵》を、帰国記念展として再構成した新作です。使われたのは、15,000個の鍵、3,000ロールの赤い糸、5つの扉。

赤い糸は血管、血液を連想させ、5つの扉を抜けて巨大生物の体内を経巡る思いをもたらします。また、空間に直立した扉は異世界への入り口であり、ここを抜けると2度と元の世界に帰れないという幼少期に心の奥に刷り込まれた恐怖を呼び起こします。吊るされた15,000個の鍵は、実際に人が使用していたもので全世界から集められたそうです。

写真撮影は自由でした。観客も多く勇気づけられましたが、もし他に誰もいなかったなら、通り抜けた扉の順番を逆になぞって、必ず元の世界に帰れるように移動したことでしょう。しかし、このように行動しても位相のずれが生じてしまって、どうしても異世界に留まることになる宿命が待ち受けていそうでした。

大駱駝艦・天賦典式「パラダイス」

13524560_1073205356066484_2951147183999506226_n 13576672_1074395015947518_7815621408615954088_o2016年6月30日、大駱駝艦の舞踏公演「パラダイス」を世田谷パブリックシアターで観ました。大駱駝艦の舞踏は、そのスペクタル性が特徴で大規模に行う本公演は天賦典式の名を冠せられます。今回の舞台は装置が白一色であり、そこで剃髪・白塗りの男性舞踏手と、眉を落として髪をひっつめた白塗りの女性舞踏手が踊るのですから、色彩に対する飢餓感が生じました。色のない舞台では、光が多弁となり様々なことを語りかけてきます。

麿赤兒を中心に据え、舞踏手全員が鎖で放射状に引っ張っているシーンから舞台が始まります。あえて具象的なイメージを持ち出せば、大駱駝艦という艦船を全員で支えていると例えるべきか、全員が艦船に拘束されていると例えるべきか。

アンリ・ルソーの絵画が映しだされもしましたが、基本はやはり白色でした。赤、青、黄の原色のウィグを被って女性舞踏手が登場した時は、憧れにも似た心の底からの情動が湧き起こり、きれいだという想念に支配されました。それまでは、男性舞踏手の方がずっと魅力的に見えていたのです。

その昔、大駱駝艦の豊玉伽藍が江古田にあった時に観た、薄暗いアトリエ公演。初めて天賦典式を調布で観た時の、煮しめたようなボロを着た亡者の群れ。それらと対比すれば、光に溢れ、金銀原色の衣装を着た白色の舞台はまさにパラダイスの顕現と言えます。

動く箱の装置を用いた踊りに、舞台は移り変わって行きました。この箱の外壁はやはり白が基調で、饒舌な光を反映しました。ところが途中から箱を逆向きにして、青く塗られた内側を見せてしまいます。通常は隠された装置の内部を客席から見るのは、内臓が取り出された生物標本の中を覗き見る感覚でした。

そして、麿赤兒と鎖のシーンに戻ります。麿の衣装は、緑から白に変わっています。

小林泰三「クララ殺し」

71RMhFGLXqLSF・ホラー・ミステリー作家である小林泰三の、ミステリーSF作品「アリス殺し」の続編が出ました。「アリス殺し」では、不思議の国と地球がリンクしあって、登場人物に起こった事件は、もう一方の世界でそのアヴァターの夢として認識されました。今回「クララ殺し」では同じアヴァターを介すリンクが、ETAホフマンの作品世界と地球との間に形成されます。

ETAホフマンの代表作である「砂男」と、チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」の原作となった「くるみ割り人形とねずみの王様」は読まれた方も多いと思います。「マドモワゼル・ド・スキュデリ」、「黄金の壺」を私は読んだことがありませんでした。「クララ殺し」の理解を深めるために現在後追いで読書中です。

前回アリスをサポートした、蜥蜴のビル(地球では理系の大学院生井森建)が、不思議の国からホフマン宇宙に流れついてしまったことから事件が始まります。

クララと言ったら、アニメ「アルプスの少女ハイジ」に出てくるクララをまず思い浮かべます。それを狙ってだと思いますが、最初クララは車椅子に乗って登場します。しかし、「アルプスの少女ハイジ」はまったく関係なく、「くるみ割り人形とねずみの王様」の世界に突入していきます。

小林泰三お得意のロジックが縦横に炸裂しますが、今回はミステリーが中心で、SFとホラー成分は控えめです。不思議の国のすべての事象を地球の事象として書き換える、クトゥルー神話のヨグ=ソトースのような神性あるいは大規模演算装置である、赤の王様は「クララ殺し」には出現しません。代わりと言ってはなんですが、新藤礼都、岡崎徳三郎など、作者の他のミステリー小説の探偵が客演いたします。

シス・カンパニー「コペンハーゲン」

cover12016年6月23日、シス・カンパニーの公演「コペンハーゲン」をシアタートラムで観ました。作:マイケル・フレイン、演出:小川絵梨子、キャストは不確定性原理で有名なハイゼンベルクを段田安則、その師匠ニルス・ボーアを浅野和之、ボーアの妻でその秘書を務めていたマルグレーテ・ボーアを宮沢りえが演じました。3人芝居です。

ニルス・ボーアとハイゼンベルクは量子力学を創設し、量子的重ねあわせのコペンハーゲン解釈を提唱したことで知られています。粒子は空間内にシュレディンガーの波動関数に従った確率的広がりを持って存在しているが、観測が行われた瞬間に1点に収束するというやつです。

ナチス・ドイツの占領下にあったコペンハーゲンのニルス・ボーアのもとを、1941年9月の終わりのある1日、ハイゼンベルクが歴史的にも謎とされる訪問を行いました。ハイゼンベルクは母国ドイツに留まり、ナチスの原爆開発チーム、ウランクラブの一員となっていたのです。訪問の意図はなんで、この1日になにが話し合われたのかを、すでに鬼籍に入った3人が後になって検証を試みるという筋立てです。

連合国側の原爆開発の情報を探るため、ナチスの原爆開発を阻止するため、ボーアをナチス側に引き入れるため、ただ自慢をしたかっただけなど、さまざまな可能性が演じ直されます。しかし、起こり得たことが提示されただけで、その内容によって歴史が変わったかもしれない事実は「不確定」であることが浮かび上がって来ます。

自分の物理学の思い出を語ります。大学の教養課程で、理系の学生は数学、物理、化学、生物は必修科目で予定が詰まっていました。教科書は指定されずいくつかの参考書が紹介され、それを好きに選んで勝手に勉強するのが私の大学の方針でした。電磁気学で選んだ「ファインマン物理学」(岩波書店)は、とても面白く興奮を呼び名著であることがわかりました。全巻買い直して手元にあります。第V巻の量子力学は1979年初版で、私の駒場時代にはまだ出版されていなかったことに気づきました。本郷に上がってから、量子コンピューターがお伽話ではなくなってきた現在に至るまで、じっくりと量子力学を勉強する暇は残念ながら見いだせていません。

 

藤井太洋「オービタル・クラウド」

4115y+w-T7L 51q3Eaj5SpL2015年の第35回SF大賞、第46回星雲賞受賞作品である、藤井太洋の「オービタル・クラウド」が2016年5月、電子書籍化されました。

伊藤計劃の「屍者の帝国」と世界観を共有したアンソロジー「屍者たちの帝国」に参加した藤井太洋の改変歴史物「従卒トム」で、山岡鉄舟、勝海舟の2人がとてもかっこよく描かれ、抜群の面白さを発揮していたので、機会があれば長編を読んでみようと思っていた所でした。

「オービタル・クラウド」は、テザー推進による人工衛星群の話で、2020年の近未来、日本の近隣の某国のスペーステロとの攻防戦が描かれます。テザー推進とは、磁場と電場から導電性テザーに発生するローレンツ力による推進システムです。

私は1957年の生まれで、この年に史上初の人工衛星、スプートニク1号が軌道上に乗りました。アポロ11号の月着陸は1969年で12歳の時の出来事でした。徹夜で放送にかじりついていました。すなわち、宇宙のことといえば何であろうと血が騒ぐ世代に属します。一時は皆の興味を惹かなくなっていた宇宙開発ですが、最近は、はやぶさの活躍、映画「ゼロ・グラビティ」、漫画「宇宙兄弟」、小説「火星の人」とその映画化など、多くの人に通じるあたりまえの話題として復活しています。

本書の導入部で語られる、ツィオルコフスキーの公式は、推進剤を用いるロケット推進に関する公式で、宇宙旅行の父コンスタンチン・ツィオルコフスキーが1897年に発表したものです。ツィオルコフスキーの伝記は私の小学生の頃の愛読書でした。今はどのぐらいの人が、ツィオルコフスキーの有名な言葉「地球は人類の揺りかごだが、そこに永遠に留まっているわけにはいかない」を知っているのでしょうか。もちろんテザー推進は、ツィオルコフスキーの公式には縛られません。

この小説では、登場人物は、敵も味方も全員が天才的な能力を発揮します。さまざまな問題が時間的猶予なしにどんどん降りかかって来ますが、素晴らしいスピードで解決されていきます。それでも上下2巻になるのですから、いかに扱ったトピックスの数が膨大かということです。読む方の脳が、休みをはさまなければ理解ししっくりと収められない状態となりました。

以上、宇宙が好き、軌道計算が好き、ラズベリーパイを使った電子工作が好きという人に迷わず勧める小説です。また、若干噛ませ犬的なポジションですが、F-15、F-22の航空機も活躍します。こちらのファンの人も一読の価値があります。

SolPie「茶丽丝少女」

茶丽丝少女中国人ボカロPである、SolPie(ソウパイ)を紹介します。とは言っても、私は2014年にSolPieの曲にたまたま巡りあって、その音楽が好きになった一介のファンですから、以下の記事は初音ミクWikiやニコニコ大百科などからの引用です。

中国広西チワン族自治区桂林出身です。初音ミクが日本語データベースであるにもかかわらず、見事な中国語調教を施すことで人気が出ました。2010年5月7日に投稿した「西江月」(後に「月西江」として再投稿)でその名を知られるようになりましたが、中国人ということで動画が荒れ、さらに荒らしがエスカレートして行き、いわれのない中傷とそれに対するコメントの応酬など、この動画のせいでみんなが仲良くなれないということで「月西江」を削除しました。

私がSolPieの曲を知ったのは、iTunesの購入履歴からの紹介機能で「消えてる放射線(Floral Nuke)」を聞いたことが始まりです。「月西江」も現在はiTunesないしApple Musicで聞けます。

2016年2月3日のSolPieの新曲「茶丽丝少女」は、繁体字では「茶麗絲少女」となって、「リージ茶の少女」と翻訳できます。機械翻訳ソフトと曲調から、クリスマス・イブの日にほとんど忘れかけていた昔の恋人の事を思い出した少女の曲だとわかりました。彼女は泣きません。

とても好きな曲です。

 

 

アン・レッキー「叛逆航路」「亡霊星域」

61XNx4iiNeL._SX354_BO1,204,203,200_ 51Sv1aggjTL._SX354_BO1,204,203,200_アメリカの作家、アン・レッキーのデビュー作「ラドチ戦史」シリーズの第1作と第2作です。第1作の「叛逆航路」は2013年に発表され、同年度のネビュラ賞、英国SF協会賞、キッチーズ賞、2014年度のヒューゴー賞、ローカス賞、クラーク賞、英国幻想文学大賞と、英米の主要SF賞7冠を達成しました。邦訳は2015年11月で、上記7冠獲得の華々しいキャッチコピーとともに日本上陸を果たしました。第2作の「亡霊星域」はその続編で、こちらもローカス賞と英国SF協会賞に輝いています。本邦初訳は2016年4月でした。ラドチ戦史シリーズは全3部作で、第3作は2015年に刊行されています。我が国での出版予定はまだ公表されていません。

SFのジャンルは、ニュー・スペースオペラと呼ぶことが出来る大規模エンターテイメントSF活劇です。「デューン/砂の惑星」からはすでに長い年月が経ってしまい、「スター・ウォーズ」も話の終わりが見え出した現在、多くの読者が新しい、壮大な世界観に支えられた作品世界を求めていたという背景があって受賞につながったと考えます。

本シリーズで1番の特徴となるのは、ラドチの文化ではジェンダーの区別がないことです。3人称代名詞はすべて「彼女」、親は男女とも「母親」、兄弟も男女とも「姉妹」と表記されます。一種の叙述トリックとなっていますが、あくまでも文化圏の特徴を描くために用いられていて、ここから謎を解き明かす必要はありません。われわれは、登場人物に性別を備えた具体的なイメージを重ね合わせて読むことに慣れきってしまっていることが実感できます。最初はこのジェンダーの区別がないことが、非常な読みにくさと感じられました。他の文化圏からみれば、ラドチの市民にも男女の別はあり、恋愛行為もあるのですから。恋愛に関してはかなり自由で、軍隊内でもまったくタブーではありません。そして、ジェンダーを区別しない文化圏での恋愛行為ですので、さらに自由です。従って、最初は男女の同定をすべて放棄して読み進めることをお勧めします。第2作「亡霊星域」までたどり着ければ、ジェンダーを区別しない読み方にも慣れてきて、世界観を余裕を持って味わうことが出来ると保証いたします。

しかし、このシリーズ、いずれは映画化されると思いますが、生物学的な男女の別はあるのに、ジェンダーを区別しない文化というものを、映像ではどのように描くのでしょうか。

他には、なにかといえばお茶をたしなむこと、手袋を常にして素手を晒すことは大変な恥となること、アマート神を中心とした多神教、服装の細かな規定、アクセントで表される出自が問題となる階級社会など、ラドチ文化についていろいろな側面が描かれます。「デューン/砂の惑星」がイスラム教やアラブ世界から発想を取り入れて文明を描いていることに比べると、西欧文化圏の側に立つ日本人にとって、ラドチ文化を理解するのは拍子抜けするぐらい容易です。お茶の習慣は、英国にもインドにも日本にもありますし。ただし現代日本のはペットボトル入りのお茶の習慣であり、ラドチ市民からみれば文化的な余裕のない蛮族と評されるかもしれません。