カテゴリー別アーカイブ: SF小説

宮内悠介「彼女がエスパーだったころ」

51iqltmjmflスペース金融道シリーズで有名な、SF作家宮内悠介が疑似科学に愛を捧げた短編集「彼女がエスパーだったころ」を読みました。スプーン曲げや終末期医療にまつわるあれやこれやなどがモチーフとして扱われています。語り手の記者である「わたし」は、疑似科学に批判的な立場から話を始めます。そして取材が進むに連れて、疑似科学を肯定も否定もしない境地に至ります。作者のインタビューによれば、科学リテラシーと信仰の両立であり、作者の愛の形です。

ガチガチの科学主義者であり、現代科学に裏付けられたダーウィニズムを信奉するこのブログの筆者が、嫌っているはずの疑似科学に寛容な小説を紹介するのはいささか奇異に感じられるかも知れません。しかし、偏狭な価値観一辺倒ではないことをご理解いただけたと思います。

実は表紙のデザインとタイトルに惹かれて購入を決めたのでした。さらに皮肉なことに、入手した電子書籍版ではページを繰って表紙を見ることができません。講談社に改善を要望したい。

現実世界での社会現象ではありませんから、「水にありがとうと言葉を込めて、全世界の水を浄化する」と書いてあっても、筆者は目くじら立てて怒ったりはしません、しないつもりです、する一歩手前ですが踏みとどまります。

小林泰三「クララ殺し」

71RMhFGLXqLSF・ホラー・ミステリー作家である小林泰三の、ミステリーSF作品「アリス殺し」の続編が出ました。「アリス殺し」では、不思議の国と地球がリンクしあって、登場人物に起こった事件は、もう一方の世界でそのアヴァターの夢として認識されました。今回「クララ殺し」では同じアヴァターを介すリンクが、ETAホフマンの作品世界と地球との間に形成されます。

ETAホフマンの代表作である「砂男」と、チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」の原作となった「くるみ割り人形とねずみの王様」は読まれた方も多いと思います。「マドモワゼル・ド・スキュデリ」、「黄金の壺」を私は読んだことがありませんでした。「クララ殺し」の理解を深めるために現在後追いで読書中です。

前回アリスをサポートした、蜥蜴のビル(地球では理系の大学院生井森建)が、不思議の国からホフマン宇宙に流れついてしまったことから事件が始まります。

クララと言ったら、アニメ「アルプスの少女ハイジ」に出てくるクララをまず思い浮かべます。それを狙ってだと思いますが、最初クララは車椅子に乗って登場します。しかし、「アルプスの少女ハイジ」はまったく関係なく、「くるみ割り人形とねずみの王様」の世界に突入していきます。

小林泰三お得意のロジックが縦横に炸裂しますが、今回はミステリーが中心で、SFとホラー成分は控えめです。不思議の国のすべての事象を地球の事象として書き換える、クトゥルー神話のヨグ=ソトースのような神性あるいは大規模演算装置である、赤の王様は「クララ殺し」には出現しません。代わりと言ってはなんですが、新藤礼都、岡崎徳三郎など、作者の他のミステリー小説の探偵が客演いたします。

藤井太洋「オービタル・クラウド」

4115y+w-T7L 51q3Eaj5SpL2015年の第35回SF大賞、第46回星雲賞受賞作品である、藤井太洋の「オービタル・クラウド」が2016年5月、電子書籍化されました。

伊藤計劃の「屍者の帝国」と世界観を共有したアンソロジー「屍者たちの帝国」に参加した藤井太洋の改変歴史物「従卒トム」で、山岡鉄舟、勝海舟の2人がとてもかっこよく描かれ、抜群の面白さを発揮していたので、機会があれば長編を読んでみようと思っていた所でした。

「オービタル・クラウド」は、テザー推進による人工衛星群の話で、2020年の近未来、日本の近隣の某国のスペーステロとの攻防戦が描かれます。テザー推進とは、磁場と電場から導電性テザーに発生するローレンツ力による推進システムです。

私は1957年の生まれで、この年に史上初の人工衛星、スプートニク1号が軌道上に乗りました。アポロ11号の月着陸は1969年で12歳の時の出来事でした。徹夜で放送にかじりついていました。すなわち、宇宙のことといえば何であろうと血が騒ぐ世代に属します。一時は皆の興味を惹かなくなっていた宇宙開発ですが、最近は、はやぶさの活躍、映画「ゼロ・グラビティ」、漫画「宇宙兄弟」、小説「火星の人」とその映画化など、多くの人に通じるあたりまえの話題として復活しています。

本書の導入部で語られる、ツィオルコフスキーの公式は、推進剤を用いるロケット推進に関する公式で、宇宙旅行の父コンスタンチン・ツィオルコフスキーが1897年に発表したものです。ツィオルコフスキーの伝記は私の小学生の頃の愛読書でした。今はどのぐらいの人が、ツィオルコフスキーの有名な言葉「地球は人類の揺りかごだが、そこに永遠に留まっているわけにはいかない」を知っているのでしょうか。もちろんテザー推進は、ツィオルコフスキーの公式には縛られません。

この小説では、登場人物は、敵も味方も全員が天才的な能力を発揮します。さまざまな問題が時間的猶予なしにどんどん降りかかって来ますが、素晴らしいスピードで解決されていきます。それでも上下2巻になるのですから、いかに扱ったトピックスの数が膨大かということです。読む方の脳が、休みをはさまなければ理解ししっくりと収められない状態となりました。

以上、宇宙が好き、軌道計算が好き、ラズベリーパイを使った電子工作が好きという人に迷わず勧める小説です。また、若干噛ませ犬的なポジションですが、F-15、F-22の航空機も活躍します。こちらのファンの人も一読の価値があります。

アン・レッキー「叛逆航路」「亡霊星域」

61XNx4iiNeL._SX354_BO1,204,203,200_ 51Sv1aggjTL._SX354_BO1,204,203,200_アメリカの作家、アン・レッキーのデビュー作「ラドチ戦史」シリーズの第1作と第2作です。第1作の「叛逆航路」は2013年に発表され、同年度のネビュラ賞、英国SF協会賞、キッチーズ賞、2014年度のヒューゴー賞、ローカス賞、クラーク賞、英国幻想文学大賞と、英米の主要SF賞7冠を達成しました。邦訳は2015年11月で、上記7冠獲得の華々しいキャッチコピーとともに日本上陸を果たしました。第2作の「亡霊星域」はその続編で、こちらもローカス賞と英国SF協会賞に輝いています。本邦初訳は2016年4月でした。ラドチ戦史シリーズは全3部作で、第3作は2015年に刊行されています。我が国での出版予定はまだ公表されていません。

SFのジャンルは、ニュー・スペースオペラと呼ぶことが出来る大規模エンターテイメントSF活劇です。「デューン/砂の惑星」からはすでに長い年月が経ってしまい、「スター・ウォーズ」も話の終わりが見え出した現在、多くの読者が新しい、壮大な世界観に支えられた作品世界を求めていたという背景があって受賞につながったと考えます。

本シリーズで1番の特徴となるのは、ラドチの文化ではジェンダーの区別がないことです。3人称代名詞はすべて「彼女」、親は男女とも「母親」、兄弟も男女とも「姉妹」と表記されます。一種の叙述トリックとなっていますが、あくまでも文化圏の特徴を描くために用いられていて、ここから謎を解き明かす必要はありません。われわれは、登場人物に性別を備えた具体的なイメージを重ね合わせて読むことに慣れきってしまっていることが実感できます。最初はこのジェンダーの区別がないことが、非常な読みにくさと感じられました。他の文化圏からみれば、ラドチの市民にも男女の別はあり、恋愛行為もあるのですから。恋愛に関してはかなり自由で、軍隊内でもまったくタブーではありません。そして、ジェンダーを区別しない文化圏での恋愛行為ですので、さらに自由です。従って、最初は男女の同定をすべて放棄して読み進めることをお勧めします。第2作「亡霊星域」までたどり着ければ、ジェンダーを区別しない読み方にも慣れてきて、世界観を余裕を持って味わうことが出来ると保証いたします。

しかし、このシリーズ、いずれは映画化されると思いますが、生物学的な男女の別はあるのに、ジェンダーを区別しない文化というものを、映像ではどのように描くのでしょうか。

他には、なにかといえばお茶をたしなむこと、手袋を常にして素手を晒すことは大変な恥となること、アマート神を中心とした多神教、服装の細かな規定、アクセントで表される出自が問題となる階級社会など、ラドチ文化についていろいろな側面が描かれます。「デューン/砂の惑星」がイスラム教やアラブ世界から発想を取り入れて文明を描いていることに比べると、西欧文化圏の側に立つ日本人にとって、ラドチ文化を理解するのは拍子抜けするぐらい容易です。お茶の習慣は、英国にもインドにも日本にもありますし。ただし現代日本のはペットボトル入りのお茶の習慣であり、ラドチ市民からみれば文化的な余裕のない蛮族と評されるかもしれません。

 

ハンヌ・ライアニエミ「複成王子」

911R5ki6DhL._SL1500_フィンランド出身の新進気鋭SF作家ハンヌ・ライアニエミのジャン・ル・フランブールシリーズ第2弾「複成王子」(原題The Fractal Prince)が邦訳されました。日本のアニメから抜けだしてきたようなオールトの雲出身の有翼の美女ミエリと、アルセーヌ・ルパンをモデルとした怪盗ジャンの活躍する、血沸き肉踊る冒険活劇です。SFのジャンルはポストシンギュラリティー、ポストヒューマン。遠未来の科学技術用語が語句の説明なしに満載された中を、語感からのイマジネーションに支えられて、一気に突っ切って読んでいくスタイルになるのは、第1作の「量子怪盗」と同じです。加えて、今回の舞台は前回の火星から河岸を変えて、千夜一夜物語的世界が広がる地球となるので、アラビア語由来のジャーゴンも頻出します。でも、全体の3分の2ほど読み進めば単語の説明も出てきますし、巻末に翻訳者の作った用語集もありますから、そう不親切な構成ではありません。

こちらのイマジネーションが総動員されることから、1つ1つの言葉が重い、いや、力を持つと感じられます。これは10代から20代の若い時に、詩集に溺れた感覚に似ています。かつては輝いていた言葉が、価値観と感覚の変化、時代の変遷とともに光を失っていって寂しい思いをしていたのですが、自分の老化から感受性が衰え無感覚になっていったのではなく、自分が変化して興味の対象が変わっていったためであることが納得できました。

私が、SF文学を好きなのは世界観を1からすべて構成していて、日常を前提にするといった甘えがないからです。

アラビアンナイト的世界が舞台であり、今回の話は物語というものが大きな意味を持っています。例えば、物語をきっかけにして身体を乗っ取る「盗身賊」の元祖である聖霊(ジン)から、精神を物語に変換するアルゴリズムを聞き出す一節があります。全体の構成も、時間軸の異なる描写、現在・過去と物語が複雑な入れ子構造をなす胡桃の中の世界となっています。1回の読書で理解するのは困難ですが、読み返すうちに折りたたまれた世界がほどけていき新たな楽しみに出会える、何度でも楽しめるお得な本と言えます。今年読んだ中では1番面白かった小説です。

グレッグ・イーガン「ゼンデギ」

8181xKP50iL._SL1500_2010年のグレッグ・イーガンの長編SF小説「ゼンデギ」が翻訳・出版されました。

グレッグ・イーガンはオーストラリアのハードSF作家です。長編の代表作として「宇宙消失」(1992年)、「順列都市」(1994年)、「万物理論」(1995年)の3つが挙げられます。「宇宙消失」は量子力学ネタ。「万物理論」は、宇宙論を含めた自然科学と人文科学・社会科学の多数のガジェットを盛り込んだお話。「順列都市」は、人間の意識・存在のデータ化と、個体の死を超えた上にこの宇宙全体の終末からの脱却を図った遠い未来の話。私の最も好きなSF小説と言える作品です。闘病中だった友人(詩人/出版編集者)のお見舞いに、彼には向かないジャンルであることは承知していましたが、新しい地平線を開いて欲しくてプレゼントしたことがあります。

「ゼンデギ」は、「順列都市」と同じく人格のデータ化を扱った話ですが、近未来が舞台となっています。場所はイラン。悪性腫瘍に侵され余命いくばくもない主人公が、自分の息子の人生の導き手としてヴァーチャル・リアリティ・ゲーム内のみで存在できる、自分の意識の複製の開発を依頼します。大脳生理学の研究成果の上に則って、サイドローディングという手法で開発が進行していくさまは、現実にはまだまだ実現不可能なフィクションですが説得力があります。表に出たデータから論理的に演繹するだけの人工知能botを開発するのではなく、参照可能な個人のすべての過去の記憶体験を抽出して疑似人格を生成していくところが、人格というものに対する深い考察を含んでいます。

ネタバレになるので詳しくは書けませんが、疑似人格が、本物の人間とは異なって制限が設けられているがための、解決不可能なパニックに陥ってしまうことでこのプロジェクトは失敗に終わります。疑似人格の人権を認めるかどうかという問題を扱ったSF作品は多数ありますが、ここではごく自然に、疑似人格の人権に配慮した失敗の判定が行われています。そして、作るのなら人間全部を作らなければならないと未来に繋いでいます。

最初に挙げた3つの作品と比べると話のスケールは小さいですが、充分に書き込まれた逸品と言えます。

フィリップ・K・ディック「宇宙の眼」

51VNFcgDimL「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」「流れよわが涙、と警官は言った」「高い城の男」など、数々のSF小説で有名なフィリップ・K・ディック。その初期の長編、1957年の「宇宙の眼」が電子書籍化された。宗教がモチーフの1つとなっているが、ディック晩年の「ヴァリス」の神学論議とは違って読みやすく、サクサクとこなせる。

観測台から見下ろしていた見学者たちを、突然の災厄が襲った。陽子ビーム加速器が暴走し、60億ヴォルトの陽子ビームが無秩序に放射され、一瞬で観測台を焼き尽くしたのだ。たまたまその場にいた8人は、台が消滅したためにチェンバーの床へと投げ出された。やがて見学者のひとり、ジャック・ハミルトンは、病院で意識を取り戻す。だがその世界は、彼の知る現実世界とは、ほんの少し違っていた。

事故にあった8人の人格が、その中の1人の夢の中に囚われていることがわかってくる。どうも実際に経過した時間はごくわずかで、8人はチェンバーの床の上で未だに意識を消失しているようだ。

類似を中国古典に求めれば、「邯鄲の枕」と「胡蝶の夢」か。邯鄲の枕は、短い時間のうちに一生涯の栄枯盛衰の夢を見た若者の話。胡蝶の夢は、蝶になった夢から目が覚めたが、自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか。

いや、自分も蝶も、自分であることに変わりはない。他人の夢の中の登場人物になってしまうということなら、ヴィクトリア朝文学、ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」の赤の王様の夢のほうがしっくりする。アリスはトウィードルダムとトウィードルディーに、お前は赤の王様の夢の中の人物に過ぎないと宣言された。

宇宙の眼でユニークなところは、いっぺんに8人もの意識が1人の夢の中に閉じ込められ、脱出騒ぎが集団のドタバタ喜劇となっていることだ。そこを抜けだした次には、また別な1人の夢が待ち構えている。これがいつまで続くかわからない。最後の現実世界は、まだ夢の中であることも感じられる。2度と覚めない夢なのだろうか。

幾多の悪夢の中では、最初の、退役軍人である老人の夢、第2バーブ教の神のわがままに支配された恩寵・奇跡・呪いの世界がイメージがはじけていて一番おもしろい。詭弁であろうと神を説得できれば直ちに祝福が得られ、敵には神の怒りが下される。そして、ご加護のもと傘の柄につかまって天空に昇り、自分を凝視する巨大な神の眼に遭遇する。

Philip K. Dick Estate公認<PKD>ブランド商品が展開されている。出版社早川書房がTシャツを売っていることがおもしろい。ジョークだと思って、第1弾「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」Tシャツ、第2弾「ユービック」Tシャツ双方とも購入した。まだ、第3弾は決まっていないが、「宇宙の眼」Tシャツならなかなかイケると思う。第3弾が待ち遠しい。