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「ブレードランナー 2049」

映画「ブレードランナー 2049」を観た。

前作「ブレードランナー」を監督したリドリー・スコットは製作総指揮を務め、ドゥニ・ヴィルヌーヴが監督、ライアン・ゴズリングが主演だった。

現時点で、今作の内容に触れるとネタバレになるので、以下最初の「ブレードランナー」のことを語ることとする。

映画「ブレードランナー」の公開は1982年、ロードショーで観た。リドリー・スコット監督の映画は1979年の「エイリアン」から観ていた。1977年のデビュー作の「デュエリスト/決闘者」は観ていない。

環境破壊から酸性雨が降り続ける、2019年のロサンゼルスが舞台である。それまでは未来といえば明るいイメージが強かった。暗い未来の都市を、しっかりとした世界観に沿って大規模に描いたSF映画を観るのは初めての経験だった。この後、暗い未来世界の映画は珍しくなくなり、1984年に「デューン/砂の惑星」、1985年に「未来世紀ブラジル」と続いた。

ルトガー・ハウアー演じるレプリカントのリーダーの最後には素直に感動したが、映画全体のあまりの異質さに、見終わった直後には秀作なのか凡作なのか、良かったのか悪かったのか、まったく判断できなかった。じわじわと強い印象が脳に染み透って行くのに1週間ぐらいかかったことを覚えている。

その後は、デザインを行ったシド・ミードの画集を買ったり、VHSでダリル・ハンナのシーンを繰り返し見たり、すっかりマニアになってしまった。

1982年の頃はインターネットはまだなかったので、雑誌「ぴあ」に代表された情報誌で調べて、映画を観に行くのが普通のやり方だった。いわゆる映画評論家の映画評がずらっと並んでいたが、「ブレードランナー」をちゃんと評価できた専門家はいなかった。やれ、お金の無駄遣いだ、などの酷評ばかりだった。試写の段階での映画評を、まったく信用しなくなったのはこの時からだ。

ロードショー期間の観客の入りも悪かったそうだ。最初はなかなか理解できなかったのは、私だけではなかった。

「Scarborough Fair」


アニメ「終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?」の第1回放送のオープニング曲に「スカボロー・フェア」が使われていた。「スカボロー・フェア」はイギリスの伝統的バラッドであり、その歌詞、旋律には様々なバージョンが存在する。多くの人の心に大切な記憶として植え込まれているのは、サイモン&ガーファンクルによる楽曲だろう。

この歌は、スカボローという街の市に行く人に、昔の恋人への伝言を頼むという形式を取っている。そして、海水と波打ち際の間に1エーカーの土地を見つけ、革製の鎌で収穫を刈り取るなどの不可能な仕事を成し遂げてくれれば、再び恋人になれるだろうと謡う。パセリ、セージ、ローズマリーにタイムと、香草の名前が一節毎に合いの手として入る。

「終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?」では、山田タマルが歌を、編曲を加藤達也が担当した。

地上を正体不明の怪物である17種の獣に征服され、人類が滅んだ世界。かろうじて生き残った種族は地上を離れ、レグル・エレと呼ばれる空飛ぶ群島の上に暮らしていた。地上が滅びる前の戦いで石化し、一人だけ死を逃れた準勇者の主人公が復活したのは500年後だった。借金を返すために引き受けた兵器管理の仕事で、ヒロインたち妖精兵と出会った。妖精兵はレプラコーンであり人類と同じことができ、かつて人間の勇者しか使えなかった聖剣を振るう、使い捨ての兵器と看做される存在だった。

2009年7月にシアター・クリエで観た椎名桔平、内田有紀主演の舞台「異人たちとの夏」でも、「スカボロー・フェア」が使われ、特にその歌詞が重要な役割を果たしていた。演出は鈴木勝秀。歌の中の一連の不可能な願いは、サイモン&ガーファンクル版や他のミュージシャンによるカバー版では短くされているが、元となったバラッドではいろいろなことが語られている。ぜひともWebで調べてみて欲しい。

そして、1967年のダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」の挿入歌として用いられ、世界的に有名になったのが、サイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」だ。「卒業」はラストの、結婚式の最中に花嫁を奪い取るシーンで広く知られている。反体制的な若者を描いたアメリカン・ニューシネマを代表する作品である。

万田邦敏「SYNCHRONIZER」

万田邦敏監督の映画「SYNCHRONIZER」を渋谷ユーロスペースで観た。

映画に登場する古い医療技術は、映画の主題以上に呪術的恐怖を引き起こす。

1973年の映画「エクソシスト」では、パズズに憑依された少女の診察に、コンピュータを用いないアナログな機械的装置である、管球とフィルムが動き回る断層撮影が登場する。EMI社のCTの発表は1972年であり、1973年の時点ではコンピュータ以前の断層撮影は標準的検査法であったのだろうが、悪魔以上に不気味な物体に見える。

1980年の映画「アルタード・ステーツ」では、ジョン・C・リリーの開発したアイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)による実験が描かれる。ペンプロッター式の多チャンネルアナログ脳波計が、今では、禍々しさを演出する小道具として目に映る。実験の結果、遺伝子に潜む系統発生の記憶が解放され、主人公の細胞は変化し類人猿と化してしまう。「SYNCHRONIZER」は、医学実験から新しい生命形態が誕生するなど、この「アルタード・ステーツ」に近いものを感じさせる。

認知症治療の研究のため、ヒトとヒトの脳波を同期させる。映画内で扱われるのは脳波であり、映像で見栄えのする、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)やポジトロン断層法(PET)などの最近の脳機能イメージングではない。グロテスクな眼帯様の電極を装着し、正弦波状の脳波(脳波のようなもの)を2つ重ね合わせる。「新世紀エヴァンゲリオン」のインターフェイス・ヘッドセットを介したシンクロを思い浮かべれば理解しやすいだろうが、エヴァのような未来的な格好いいものではない。昭和の時代の民家の中で、昭和の家具に囲まれて実験は継続される。

筆者は視覚誘発電位などの電気生理学的測定の経験を多数持っているが、これはノイズとの戦いである。ハムノイズを極力減らした環境を作り上げ、シグナルよりずっと大きな筋電図などの影響の中から目的とする電位変動を取り出さなければならない。基線の動揺などの誤差要因は、それでもなくならない。測定値は常に誤差を含んでいる。

映画の文脈に合わせて書けば、1個1個の数字の裏に必ず魔が潜んでいるのである。

 

Project Itoh 「虐殺器官」

2017年2月9日、映画「虐殺器官」を観た。

2009年3月に34歳の若さで病没した、作家伊藤計劃の小説「虐殺器官」「ハーモニー」と、冒頭部が絶筆として遺され、盟友の円城塔が書き継いだ「屍者の帝国」の3作を劇場アニメ化する企画がProject Itohである。3つの映画をそれぞれ別のスタジオが制作したが、キャラクター原案をすべてイラストレーターredjuiceが行い世界観の統一が図られた。また、主題歌は全作品でEGOISTが担当した。アルバム「リローデッド」に収められている。2015年10月に映画「屍者の帝国」が、2015年11月に映画「<harmony/>」が封切られた。

映画「虐殺器官」は、製作会社の倒産があり公開が危ぶまれたが、新たなスタジオ「ジェノスタジオ」を設立しての制作再開となった。2017年2月3日、無事公開初日を迎えた。

3作品とも、ほぼ、原作小説に忠実な映像化が行われている。「虐殺器官」では、内省的な描写である主人公とその母親との関係性はあえて省かれているが、これにより物語の進行を映像のリズムとスピードで表現することが可能となった。

小説「虐殺器官」は伊藤計劃のデビュー作で、2007年6月発行。文庫版の刊行は2010年である。私が原作を初めて読んだのは、小説「ハーモニー」の英訳版が2011年4月にフィリップ・K・ディック記念特別賞を受賞したとの報からで、2011年5月に小説「ハーモニー」とともに読破した。米国の名の通ったSFの賞を、日本のSF小説が受賞したのは初めてだったのだ。

ノーム・チョムスキーの提唱する生成文法の理論に則って「虐殺器官」は書かれている。概念の説明のための会話が、アクションとアクションの間に多数挿入されているが、冗長となることはなかった。しかし、原作小説を未読であるか、生成文法に関する基礎知識をまったく持たない人が、いきなり映画を観たら違った感想を抱くかもしれない。

視覚に訴えるのであたりまえではあるが、SF的ガジェットの描写は映画の方が原作よりずっとわかりやすい。とくに、部隊員を入れて高空から目的地に射出される人工筋肉を用いたイントルード・ポッドは、原作でも映画でも最初の方から出てくる。原作の「巨人のボールペンのような漆黒の棒状の物体」ではイメージしきれなかった。バリエーションによる違いも巧妙にデザインされていた。

プログラムの表紙にはジョン・ポールが描かれている。

モルテン・ティルドゥム「イミテーション・ゲーム」

91jxpyhuy0l-_sl1500_数学者アラン・チューリング(1912-1954)の生涯を描いた2014年の映画「イミテーション・ゲーム」(日本公開は2015年)を、DVDで観ました。監督:モルテン・ティルドゥム。主演:ベネディクト・カンバーバッチ。

チューリングマシンの名の通り、コンピューターの誕生に重要な役割を果たしたアラン・チューリングですが、第二次世界大戦中にドイツのエニグマ暗号を解読し戦争終結に多大な貢献をしたことは、1970年代まで国家機密とされていました。

実際のエニグマ暗号解読の詳細については、サイモン・シン「暗号解読」などの書籍に詳しく書かれています。映画ではごく簡単に描写されているだけです。映画内でクリストファーの名で呼ばれる暗号解読装置ボンブは、映画の演出の都合上実物より大きく作られました。まるで1987年の日本のアニメ映画「王立宇宙軍 オネアミスの翼」に出てくる機械式コンピューターのように見えます。「オネアミスの翼」の方も、機械式コンピューターのデザインをボンブを参考にした可能性はあります。

これを書いた後Netflixで視聴可能になったので「オネアミスの翼」を見直してみましたが、コンピューターは電気式であり、機械式ではありませんでした。別の作品でしたか。「屍者の帝国」のは、もっとエレガントなデザインですし、記憶の出どころが不明です。失礼しました。

この映画の特に素晴らしいパートは、エニグマ暗号解読に成功してからラストまでの30分間です。

お勧めの映画です。まずは観てください。

デヴィッド・ボウイ「地球に落ちて来た男」

IMG_2017 IMG_2020ロックスター、デヴィッド・ボウイが2016年1月10日帰らぬ人となりました。このニュースがSNSを通してシェアされて来たのは、日本時間2016年1月11日の午後になってのことでした。大事件だと、すぐさま眼科スタッフのみんなに伝えましたが、ジェネレーションギャップを感じるはめとなりました。

ボウイの活動の幅は広く、ミュージック・シーン以外にも映画俳優としての活躍が有名です。大島渚監督「戦場のメリークリスマス」(1983)を観た人は多いと思います。古くからのファンにとっては、その後の人生に大きな影響を与えた映画として「地球に落ちて来た男」(1976)について語らないわけにはいきません。千石にあった座席数300の劇場、三百人劇場に観に行ったと記憶しています。三百人劇場は劇団昴の拠点でしたが、数々の演劇公演、名作映画の上映のため足繁く通っていました。

地球の人類と似た姿形のヒトが文明を築く、とある惑星は干ばつで苦しんでいた。地球の文明のことは、地球からのTV放送で研究し尽くされていた。妻と子供たちを残し、宇宙人デヴィッド・ボウイ(役名はトーマス・ジェローム・ニュートン)はロケットで単身地球にやって来た。地球より進んだ科学技術で特許を取り、商業的成功から資金を得て、母星に水を輸送するためである。しかし、その商業的成功が国家的情報機関の陰謀を招き、ボウイは誘拐隔離されボウイの企業の主要人物たちは粛清された。水と同じ無色透明な液体であるジンに溺れて、アルコール漬けになっていった。母星に残した家族の死が、超感覚でボウイに伝わった。変装用コンタクトレンズが眼球に張り付いて取れなくなり、元の宇宙人の姿には戻れない。母星に帰る手段もない。

地球の情報をチェックするためテレビセットを10画面以上並べて、すべて同時に見ていくシーンが画期的でした。まだ、パソコンもない時代であり、マルチディスプレイの未来が来るなど考えられないことでした。今、私は診療で3つのディスプレイを同時に使用していますが、ディスプレイが多いほどかっこいいと、この映画で刷り込まれた人はたくさんいることでしょう。

ボウイの音楽活動は1980年代に入ってから、一般の人が受け止めやすい楽曲に変わり、”Let’s Dance”, “China Girl” は多くの賛同者を獲得しました。ナスターシャ・キンスキー主演の映画「キャット・ピープル」の主題歌を歌ったことも話題となりました。

私が、1980年に作・演出した芝居で、幕間狂言のBGMとしてボウイの1979年のアルバム “Lodger”から、”African Night Flight”を使用しました。役者たちの肉体に過酷な負担を強いる演出だったので、皆から怨念と呪詛を受けることとなりましたが、今でもこの曲を聴けば体が勝手に動きだす当時のメンバーはいるだろうと想像します。このアルバムの曲のなかでは”Yassassin”が1番好きでした。