月別アーカイブ: 2015年7月

グレッグ・イーガン「ゼンデギ」

8181xKP50iL._SL1500_2010年のグレッグ・イーガンの長編SF小説「ゼンデギ」が翻訳・出版されました。

グレッグ・イーガンはオーストラリアのハードSF作家です。長編の代表作として「宇宙消失」(1992年)、「順列都市」(1994年)、「万物理論」(1995年)の3つが挙げられます。「宇宙消失」は量子力学ネタ。「万物理論」は、宇宙論を含めた自然科学と人文科学・社会科学の多数のガジェットを盛り込んだお話。「順列都市」は、人間の意識・存在のデータ化と、個体の死を超えた上にこの宇宙全体の終末からの脱却を図った遠い未来の話。私の最も好きなSF小説と言える作品です。闘病中だった友人(詩人/出版編集者)のお見舞いに、彼には向かないジャンルであることは承知していましたが、新しい地平線を開いて欲しくてプレゼントしたことがあります。

「ゼンデギ」は、「順列都市」と同じく人格のデータ化を扱った話ですが、近未来が舞台となっています。場所はイラン。悪性腫瘍に侵され余命いくばくもない主人公が、自分の息子の人生の導き手としてヴァーチャル・リアリティ・ゲーム内のみで存在できる、自分の意識の複製の開発を依頼します。大脳生理学の研究成果の上に則って、サイドローディングという手法で開発が進行していくさまは、現実にはまだまだ実現不可能なフィクションですが説得力があります。表に出たデータから論理的に演繹するだけの人工知能botを開発するのではなく、参照可能な個人のすべての過去の記憶体験を抽出して疑似人格を生成していくところが、人格というものに対する深い考察を含んでいます。

ネタバレになるので詳しくは書けませんが、疑似人格が、本物の人間とは異なって制限が設けられているがための、解決不可能なパニックに陥ってしまうことでこのプロジェクトは失敗に終わります。疑似人格の人権を認めるかどうかという問題を扱ったSF作品は多数ありますが、ここではごく自然に、疑似人格の人権に配慮した失敗の判定が行われています。そして、作るのなら人間全部を作らなければならないと未来に繋いでいます。

最初に挙げた3つの作品と比べると話のスケールは小さいですが、充分に書き込まれた逸品と言えます。

マームとジプシー「cocoon」

IMG_16232015年7月2日、マームとジプシーの公演「cocoon」を、東京芸術劇場シアターイーストで観ました。2013年に好評を博した公演の再演に当たります。原作は今日マチ子の漫画「cocoon」で、沖縄戦が舞台ですが、歴史に残る悲惨な出来事をリアルに描くのではなく、悲劇に封じ込められてしまった少女たちの気持ちを中心に表現したものです。原作者と演出家藤田貴大が共同して芝居を作り上げていった様を、初演時の今日マチ子のメイキングエッセイとして、ほぼ日刊イトイ新聞の中で見ることができます。今回の再演にあたっては、共同作業をさらに深いものにしていったということです。

原作漫画を最初に読んだ時、白い影として描かれる男たちや、時代と場所を明確にしない描写など作者の意図した表現の間隙が、すべて岡本喜八監督の映画「沖縄決戦」の具体的で生々しいイメージによって、私の脳内で補完されてしまいました。この漫画だけでは、何か弱い。漫画の意図に合わせて表現を補強する必要があると感じられました。同じ思いを持った人が多かったのでしょうか。舞台化は必然のものだったのかも知れません。

芝居は素晴らしいものでした。繭にくるまれ守られた箱庭的世界、少女たちの学園生活の日常を、隙のないリフレインで濃密に描き、私の雑念が入り込む余地はありませんでした。

役者集団の計算された一糸乱れぬ動き、木の枠を次々と動かしながら窓・壁を表現していく様、ロープで舞台を区切って長い廊下での歩行・会話を表す手法、いずれも見事でした。ほぼ正方形の舞台は沖縄の砂を模した砂が敷き詰められ、これが終盤の海岸のシーンに昇華していきます。そして海岸を全力で走ること、走ること。若さは羨ましいものです。

主人公サンの親友まゆの死がクライマックスになるのですが、死の表現に特別な演出は用いられず、それまでの他の少女たちの死と同等でした。藤田貴大にとっては、すべての少女の死が総体としてドラマを形作っていくという解釈なのでしょうか。

若い世代の演出家による感動を呼ぶ舞台に巡りあうことは、なかなか難しいものとなってしまっています。応援していきます。