2010年のグレッグ・イーガンの長編SF小説「ゼンデギ」が翻訳・出版されました。
グレッグ・イーガンはオーストラリアのハードSF作家です。長編の代表作として「宇宙消失」(1992年)、「順列都市」(1994年)、「万物理論」(1995年)の3つが挙げられます。「宇宙消失」は量子力学ネタ。「万物理論」は、宇宙論を含めた自然科学と人文科学・社会科学の多数のガジェットを盛り込んだお話。「順列都市」は、人間の意識・存在のデータ化と、個体の死を超えた上にこの宇宙全体の終末からの脱却を図った遠い未来の話。私の最も好きなSF小説と言える作品です。闘病中だった友人(詩人/出版編集者)のお見舞いに、彼には向かないジャンルであることは承知していましたが、新しい地平線を開いて欲しくてプレゼントしたことがあります。
「ゼンデギ」は、「順列都市」と同じく人格のデータ化を扱った話ですが、近未来が舞台となっています。場所はイラン。悪性腫瘍に侵され余命いくばくもない主人公が、自分の息子の人生の導き手としてヴァーチャル・リアリティ・ゲーム内のみで存在できる、自分の意識の複製の開発を依頼します。大脳生理学の研究成果の上に則って、サイドローディングという手法で開発が進行していくさまは、現実にはまだまだ実現不可能なフィクションですが説得力があります。表に出たデータから論理的に演繹するだけの人工知能botを開発するのではなく、参照可能な個人のすべての過去の記憶体験を抽出して疑似人格を生成していくところが、人格というものに対する深い考察を含んでいます。
ネタバレになるので詳しくは書けませんが、疑似人格が、本物の人間とは異なって制限が設けられているがための、解決不可能なパニックに陥ってしまうことでこのプロジェクトは失敗に終わります。疑似人格の人権を認めるかどうかという問題を扱ったSF作品は多数ありますが、ここではごく自然に、疑似人格の人権に配慮した失敗の判定が行われています。そして、作るのなら人間全部を作らなければならないと未来に繋いでいます。
最初に挙げた3つの作品と比べると話のスケールは小さいですが、充分に書き込まれた逸品と言えます。